■自分なりに「ある人」の分析をすれば、、、。
僕がやおら60年安保の頃の話をし始めると、それまで伏し目がちだった某「若手議員」は突然顔を上げ虚空を見上げて、こう言った。
「あのころは、いろいろ言われて、でちゅね、、、、、、僕なんか、でちゅよ、
まだ、、、
小さかったからよく憶えていないのでちゅけど、、当時の学生さんたちの真似して”アンポハンタ~イごっこ”なんかしてたらしい、、いんでちゅう(笑)、、、で、でっ、で、でもですね、、、
今にしてですよ、、、
今にして思えばですよ、、、僕の爺さんのやったことは結局国民の為になっているんだなと思えるんでちゅ。」
、、、と言って胸を張ったけれど、
それでも
僕と最後まで眼を合わせなかった。別に僕が人相悪くガン飛ばしていたわけでもなかったのにである。
それから
幾星霜、そのかっての「若手議員」もいまや還暦をむかえたらしいから、大昔の話なのだが、彼のその考え方がまったく変わっていないことに少し驚いている。
で、これから先は
僕の類推と、僕の仕事場でともに働いた同僚で彼と同じ地元長州閥に詳しい某スエノブ君などのはなしを総合して浮かび上がる「”元”若手議員」像に過ぎないから、そのつもりの単なる「寓話」として聞いてほしい。
もとより
安倍家の男子系の嫡男は父晋太郎であるが、なぜか息子・シンゾーのファータース・コンプレックスは相当なものがあるらしい。
伝え聞くところでは
余りにも勉強ができないシンゾーを分厚い辞書の角でいつも殴っていたから父を憎んだと言われているが、どうもそのせいばかりだと言えないような気がしている。
というのは
父方の安倍家だって阿部寛などという傑漢を生んでいる堂々たる家系であるが、どうも母方のとりわけ岸信介に対する畏敬の念が限りなく大きいのである。
かばかりか
徹底的に父方の存在を「政治的?」に消そうとしているのはなぜであろうか?
それゆえ
ただ寵愛してくれる祖父と孫という個人的な理由のみと理屈づける説も多く見受けるが、僕はそうればかりだとどうしても思えないのだ。
なんとなら、
今は絶対的権威を家庭内で持つという母・洋子にたいして、件の「若手代議士」はあるとき猛烈に反発し一時は手が付けられないほどの狂乱だったと聞き及んでいるからである。
その
歪んだ家庭の事情など他人では計り知れまい。
計り知れないが、
それを前提に某「若手代議士」の「成長過程?」をなぞっていくと、うっすらとなぜ「異常」な還暦男が誕生することになったのか見えてくるような気がしてくる。
というのは
ご存知のように岸信介の娘である洋子は安倍晋太郎の嫁だから安倍家の人間であるはずだ。さらに岸家は長男である信和が継いでいるから余計岸家とは関係なかったはずであろう。
ところが
「岸家」の信和にはは子どもが生まれなかったのである。ここからこの一族が「狂気の宰相」を生む運命が萌芽したのではないだろうかと僕は思っている。
ところで
岸家の嫡男信和は、なぜか本人の意思で政治家にはならず実業の世界へ入ったのである。
また
安倍家に入った洋子には3人もの子どもができ、長男・寛信、次男・シンゾー、三男・信夫がうまれたのだ。そして洋子は自分の産んだ三男信夫を生後すぐ、岸家を継いだ信和夫婦へ養子に出したのだった。
おそらく
洋子は初めからそのつもりで次男に三男にありがちな番号を付けたのだろう。(僕も俊「三」だから何となくわかる)
さらに伝聞によると
「洋子さんは昔から、岸の血筋、つまり本家筋を絶やさないようにすることが最大の関心事だった。(だから)晋太郎さんとの間に生まれた信夫さんを、産んですぐに自身の兄である岸信和さんの養子に出すことを決めたのでしょう」。
さらに
洋子の岸家へのこだわりといえるのが、例の信夫の出馬の際に顕われている。
それは
2003年のことだったと思うが、洋子は件の信夫本人に代わり実の息子、信夫の出馬を世間にいち早く表明したのである。
これも伝聞だが、
「岸信介が死去した後、後継者となるべき岸の直系は出ていない。そして、かなりの年月の空白を経て後継者に名乗り出たのが、岸信介の直系の孫・信夫だったのである。洋子にしてみれば、信夫こそ岸家の血の復興を託す子だったのだろう」
という人もいる。
だが
このことが一族にとって必ずしも「良い決断」だったとは言い難い。
というのは、
信夫の養子先である岸家夫妻は息子の信夫出馬の相談すらうけていなかったという。それゆえ養父母は「あなたは政治家にならないと言っていたのではないですか」と信夫を責め立てたといわれている。こうして確執の火種が生じ、
そのためか
信夫の養母・仲子の当時の様子をこう語る地元の者もいる。
「異常なほどやせ衰えた仲子は何度も『死にたい』と口走り、尋常な様子ではないことは一目で分かった。歯がぼろぼろに欠け、マスクで顔を隠していた。口にするのは少量の梅酒だけで他の食物は受け付けなかった。極度の栄養失調にも陥っていた。(略)ほっそりとした腕に刻まれたリストカットによるためらい傷が残っていた」
さらに、
仲子は涙ながらにこう言っていたというのだ。
「信夫に会いたいのに、洋子さんに奪われた」。
そして
件の「関係者」も
「洋子は岸家の血が途絶えることに思いを馳せ、信夫を養子に出した。しかし、時を経るとともに養子に出したことを悔やみ、結局信和夫妻が手塩にかけて育てた信夫を、わが子同然のように接し政治家に就かせた。それは洋子が産みの母親であるからこそ超えてはならない一線ではなかったろうか」
つまり
洋子は「岸信介の直系の後継者」として信夫を担ぎ、養父母から引き離したのである。
ところが
これに動揺したのは養父母だけではなく、意外なところで不快感を表明したのは、岸信介の唯一の後継者を自負する洋子の問題の次男(名前は三男風の)であったのだ。
山口県の曲者(とスエノブ君が言う)岸家の番頭?吹田愰が、そのときのシンゾーの様子をこう語っている。
「会社を辞める(辞めて政界に)なんて、けしからん。元に戻してやる」
このとき
お坊ちゃまの激怒を諌める吹田に対して、彼はなかなか治まらず、まして信夫の選挙協力などを頼んでも、ふてくされ終始しぶしぶといった態度だったという。
また
ある人はこうも言っているようだ。
「シンゾーは政治家の名門一族の後継者という衣を纏っていなければ不安で仕方がないのだろう」
などと言いつのり、それこそが暗に母・洋子の愛情と関心を独り占めしたいという思いの表れだと指摘している。
たしかに
そのときから彼は前にも増して、タカ派政策を推し進めていくことになったのは事実で、それが今に至っているの
だろう。
つまり
信夫にその座をとられないばかりに、政策によって、岸信介の正統な後継者たろうとその時から考えはじめたというのも頷ける。
それゆえ、どうしても
彼の集団的自衛権などの強硬な政治的主張が「借り物」で真に血肉化されて腹の底から出てきた言葉ではないように思われてしまうのだ。
さらには
爺さんからの悲願である改憲ですら、自分自身の頭で考えたものではないとおもわれてしまう。
じつは
ひょっとすると
「おじいちゃんが成し遂げられなかったことを自分が達成すればお母さんに褒められる」
というような
ファザーコンプレックスの裏返しの母へのアピールの一環ではないかとも思えてくるのである。確かに中学まで乳母に添い寝してもらっていた初年時代からの実母への愛の枯渇感は尋常ではないだろう。
さはさりながら
僕は彼と遭ってかなりの年月が絶っているのにも拘らず、某「若手代議士」の自信に満ち溌剌とした語り口と一向に定まることがない異様な目線の動向とのアンバランスがいまだに忘れられないのだ。
だから?So what?
いや、、、別になんでもないけれど、、、、、。