◆ なぜ、頭の良い若者ほど、 プロフェッショナルになれないのか?
7月14日 田坂広志
● なぜ、博識が、知性とは関係無いのか?
ーそれは、なぜでしょうか?
田坂:なぜなら、「知性」の本質は、「知識」ではなく、「智恵」だからです。
ー「知識」と「智恵」…。その違いが良く分かりませんが…。
田坂:では、端的に述べておきましょう。
「知識」とは、「言葉で表せるもの」であり、「書物」から学べるものです。
「智恵」とは、「言葉で表せないもの」であり、「経験」からしか学べないものです。
すなわち、「智恵」とは、科学哲学者マイケル・ポランニーが「暗黙知」(Tacit Knowing)と呼んだものであり、「言葉で表せないもの」であるため、「書物」や「文献」をどれほど読んでも、決して身につかないものなのです。
例えば、「直観力」「洞察力」「大局観」などと呼ばれる能力。
これらの能力は、「知性」と呼ばれる能力の重要な核を成していますが、これらは、「職業的な勘」や「プロの直観」などという言葉があるように、永年の「職業経験」や「現場経験」を通じてしか掴めないものです。
そして、直観力、洞察力、大局観だけでなく、実は、「知性」と呼ばれる能力の核心は、「経験」を通じてしか身につかない、人間としての極めて高度な能力なのです。
● 「知識」と「智恵」の混同という病
ーなるほど。「知識」は「書物」で学べるが、「智恵」は「経験」を通じてしか学べないということですね……。
田坂:そうです。しかし、残念なことに、最近の世の中を見渡すと、この「知識」と「智恵」を混同するという病が広がっています。
すなわち、「知識」を学んで「智恵」を掴んだと思い込む、という病です。
ーそれは、どのような病でしょうか?
田坂:例えば、最近、私は『ダボス会議に見る世界のトップリーダーの話術』という本を上梓しましたが、この中で、「話術の一つの要諦は、言葉を『粒』のように話すことである」と述べています。
しかし、ある読者が、この本を読み、この言葉にマーカーを引き、さらには、ノートに書き写したとしても、それは、ただ、「話術の一つの要諦は、言葉を『粒』のように話すことである」という言葉を「知識」として学んだにすぎません。
従って、もし本当に、この読者が、「言葉を『粒』のように話す技術」を「智恵」として身につけたいと思うならば、実際に、誰かに対して話をするという「経験」を数多く積み、言葉を「粒」のように話す訓練を何度も重ね、その技術を、文字通り「体」で掴んでいかなければならないのです。
しかし、それにもかかわらず、ただ、「話術の一つの要諦は、言葉を『粒』のように話すことである」という言葉を「知識」として学んだだけで、話術の「智恵」を掴んだと錯覚するならば、この読者は、決して話術を磨いていくことはできず、話術のプロフェッショナルになることはできないでしょう。
もちろん、一人のプロフェッショナルとして歩むために、相応の「知識」を身につけることは、絶対に必要です。しかし、書物を通じて、どれほど豊かな「知識」を身につけても、それは、「経験」を通じて獲得される「智恵」ではない。プロフェッショナルを目指す人間は、まず、そのことを、深く理解すべきでしょう。(中略)
● なぜ、高学歴の人物が、深い知性を感じさせないのか?
田坂:さて、ここまで、「知性とは何か?」という問いを掲げ、「知性」と似て非なる二つの言葉、「知能」と「知識」について述べてきました。
ここで、もう一度、この二つの言葉と「知性」との違いについて述べておきましょう。
「知能」とは、「答えの有る問い」に対して、早く正しい答えを見出す能力のこと。
「知性」とは、「答えの無い問い」に対して、その問いを、問い続ける能力のこと。
「知識」とは、「言葉で表せるもの」であり、「書物」から学べるもの。
「智恵」とは、「言葉で表せないもの」であり、「経験」からしか掴めないもの。
「知性」の本質は、「知識」ではなく、「智恵」である。
そして、「知能」と「知識」。この二つの言葉と「知性」の違いを理解するならば、今回の連載第1回の冒頭に述べた言葉の意味を理解して頂けるでしょう。
なぜ、「高学歴」にもかかわらず、思考に深みの無い人物がいるのか?
なぜ、「高学歴」にもかかわらず、深い「知性」を感じさせない人物がいるのか?
それは、ある意味で、当然でしょう。
なぜなら、現在の我が国の「学歴社会」とは、「知能」の優秀さと、「知識」の豊富さによって評価される社会だからです。
しかし、高い「知能」を持つということが、深い「知性」を持つことを意味しません。
また、豊かな「知識」を持つということが、深い「知性」を持つことを意味しません。
従って、高い「学歴」を持つということが、深い「知性」を持つことを意味しないのです。
ーなるほど。なぜ、高い「知能」を持ち、豊かな「知識」を身につけ、「高学歴」を誇る人物が、必ずしも、深い「知性」を感じさせないのか?
その疑問には答えて頂いたと思いますが、では、どうすれば、その「知性」を磨くことができるのでしょうか?
田坂:真に「知性を磨く」ためには、二つのことが求められます。
一つは、「答えの無い問い」を問う力を身につけることです。
容易に答えの見つからぬ問いに対して、決して諦めず、「割り切り」に流されることなく、その問いを問い続ける力を身につけることです。しかし、それを身につけるためには、日々の仕事を通じて、不断に、精神のスタミナとエネルギーを高めていくことが求められます。
もう一つは、「知識と智恵の錯覚」の病に罹らないことです。
書物を読み「知識」を学んだだけで、「智恵」を掴んだと錯覚することなく、歳月をかけて経験を積むことによって、深い「智恵」を掴んでいくことです。しかし、その錯覚に陥らないためには、自分が何かを語るとき、「これは書物で学んだ知識か、それとも、経験から掴んだ智恵か」を自問しながら語ることが求められます。
この二つのことを心がけるだけで、我々の「知性」は、確実に磨かれていきます。
ー「知識と智恵の錯覚」に陥らないということは、良く分かりました。
しかし、このことを頭で分かったつもりになって、実践しなければ、それ自身が、まさに「知識を学んで、智恵を掴んだと思い込む錯覚」なのですね……(笑)。
田坂:その通りです。それこそが、今日の話の本当に「怖い部分」なのですね……(笑)。
だからセェジカに「痴性」は感じても「知性」は感じないのか。
知性を感じた政治家は細川さんと山原さんだけです。
ま、多くの方はテレビや新聞上だけでしか知らないわけだけどね。
つうことは、これは「知識」であって「智恵」ではないなぁ(笑)
これらは抜粋です。
全文読みたい方はコチラ。
落合さんが解説した「フォークの打ち方」の話しなんか面白いですよ。
日経ビジネスはいい記事が時々ありますね。
写真に例えればどういうことか、いま考えてます。
考え続けることが「智恵」に繋がるそうだからw